宗貞啓二

サクソフォンを石渡悠史、故大室勇一の各氏に師亊。
1975年国立音楽大学を武岡賞を受賞し卒業、同年読売新人演奏会、皇居内桃華楽堂新人演奏会に出演。
在学中に第42回毎日音楽コンクール第1位入賞。1976年渡仏。
フランス国立ボルドー音楽院にてサクソフォンをJ.M.ロンデックス氏に、室内楽をR.ペレ氏に師亊、いずれも一等賞を得て卒業、ボルドー市栄誉賞を受ける。
1978年帰国後、演奏活動を開始。
これまで世界各地で行われたワールドサクソフォンコングレスに参加。
2004年にはソロアルバム「ベル・カント」、2010年に「祈り」をブレーンからリリースする。
2003年よりフランス人、アメリカ人、カナダ人と共にインターナショナルサクソフォン四重奏を結成、又2014年にトリオ閃束を結成し世界各地でコンサートを行う。
2018年世代を超えたピアノとサクソフォン4本のアンサンブル団体、アンサンブルフィラアルバを結成し、ツアーなどを行う。
また、第2回ジャン=マリーロンデックス国際サクソフォーンコンクールをはじめ国内外でのコンクール審査員を務める。

1.「今年のサックスは、最悪の子が入ってきた」


 宗貞さんはプレイヤーとして国内外でご活躍です。
 福井に生まれてどのような過程で音楽家の道へ進むことになったんでしょうか?
 また音楽に関わるきっかけなどを教えてください。

 音楽に関わるきっかけとしては、小学生時代でしょうか。
 僕は松岡町の松岡小学校に通っていたんですが、当時高学年で編成された合唱部に所属していました。

 兄が子供の頃から音楽や合唱をしていたので、弟も出来るんじゃないかと先生から思われていた様で、半ば強引に入部させられました。
 変声期が早くて小学校5年の終わり頃には声があまり出ない状況でうまく歌えず、合唱はあまり楽しくなかった記憶があります。

 その頃、学校の活動として鼓笛隊も編成されていました。
 僕はむしろそっちをやりたかったのですが、合唱が上手ではなかったのが理由なのかは分かりませんがメンバーに選ばれませんでした。
 その後、鼓笛隊のメンバーの一人が転校で空席ができ、そこに入ることができました。
 とても嬉しかった記憶とともに、そこが初めての音楽演奏との関わりになりました。

 授業で習うリコーダーなんかは得意げにやってましたが、小学生の時には音楽にのめり込むことはなかったです。
 当時、中学校の先生は小学校とも繋がりがあって生徒を見ているので、僕は中学校の吹奏楽部には誘われなかった。
 ただ、兄からジャズのサックスの音色のすばらしさを聞いていて、興味を持っていたので自分から吹奏楽部に入りました。

 その当時松岡中学校には15人分の楽器しかなくて、強引に僕が入ったので、一人楽器担当があぶれてしまったんだけど、一生懸命にやっているうち、なんとか15名に選ばれることが出来ました。
 最初はサックスがなかったのでクラリネットをやってました。
 中学校2年になる時に部活動でサックスを買うという情報を先生から聞いて、まだ先輩が知らないうちから「俺がやる」って手を挙げてサックス担当になれました。
 これが私とサックスの初めての出会いです。
 ただ、先生も鳴らし方が分からないし、教えてくれる先輩もいない。
 全くの独学で上手に音も出せませんでしたが、楽しい部活生活でした。

 高校は高志高校にすすみました。
 その当時、高志高校の吹奏楽部は県の中でもかなり優秀で、県内の高校では藤島と福井商業と高志が鎬を削っていました。
 吹奏楽部に入ってサックスをする事になりましたが、周りの人はちゃんと基礎から練習して吹けるのに、自分は全く吹けない。
 周りで「今年のサックスは最悪の子が入ってきた」と噂されていた様です。


《高校時代、一番手前が宗貞少年》


《高校時代、ソロ演奏中》

2.カチンときたから辞める事に……

 高校時代に怖い先輩にしごかれながら、3年間吹奏楽部でがんばりました。
 高校卒業後の進路として進学を希望していたのですが、定年で仕事をやめていた父から「兄や姉と同じ様に働いてほしい」と言われてカチンときた様です。
 高志高校では進学のクラスにいましたが、すぐに担任の先生に「就職します」と言った時にはとてもびっくりされてね……。
 母が高校に呼ばれて先生と相談する時「うちのクラスから就職する人はいない。なんとかならないか」と言われたんですけど、母は「あの子は言い出したら聞かないから」と答え、私の進路はそのまま就職になりました。


 えーっ! 先生は一度就職されているんですね。

 やはり、進学の夢は捨てきれず、学校に通いながら勤める事ができる会社もあって、そこを受けたんですが落ちてしまいました。
 その後、東芝商事という会社を受けて入社が決まりました。
 そこで仕事を始めて1~2年ぐらいたった頃、お得意様へ見積もりを出すときに、どうしても受注が欲しい仕事だったので、上司と相談してかなり安く原価割れぐらいで見積もりを出したんです。
 ここまで安くすれば大丈夫だろうと安心して他の仕事をしていたら、他のメーカーに取られてしまいました。
 上司からはずいぶんと怒られましたね……。
 こんなにぎりぎりまで削って、損するような仕事はおかしいのではと思った私は東芝商事を辞める決心をしました。

 その頃は、福井市吹奏楽団が始まり、FBCポップスにも参加してアマチュアとして活動していたんですが、丁度福井県で国体が行われる年でした。
 音楽監督として大阪の消防音楽隊の元隊長が福井に来て、福井にいる吹奏楽関係者とお酒を飲んだりする機会がありました。
 その人に「今度ヤマハで講師を育てる学校を創る、そこは給料が出るのでそこを受けたら」と言われてその気になっていたんです。
 後になって確認したら、その翌年から授業料がいる事になっていた。
 話が違うと驚いてそこへ行くのを諦めました。
 その後福井の大きな楽器屋に就職についての相談をしたところ、管楽器担当にしてくれると言われました。


《FBCポップス時代、中央が宗貞啓二》

 東芝商事で受け持っていた仕事が長引いたこともあり、辞めるのが半年ほど遅くなってしまいました。
 その後、その楽器屋さんへ行ったところ「もう管楽器担当は決まっている。ピアノを担当してくれるならいいよ」と言われてしまい、その時もカチンときましたね……(笑)