清水八洲男
昭和42年福井大学卒業。
以来、県内中・高校の音楽教員として勤務の傍ら、指揮者、演奏者として県内音楽界で活躍。
学校吹奏楽部の育成では、丸岡中学校同部を4回にわたり全日本吹奏楽コンクール全国大会に出場させるなど顕著な功績をあげる。
県内の高校オーケストラ、ジュニアオーケストラの育成にも貢献。
平成元年、県下で初めて福井室内管弦楽団を設立、主宰者兼指揮者として指揮にあたり、音楽界の充実と広く地域文化の普及向上に尽力している。
1.父の影響で音楽のとりこに
幼少の頃についてお話いただいてよろしいでしょうか。
昭和20年、私は台湾の台北近くで4人兄弟の末っ子として生まれました。
上から男、女、女、僕でした。
上の兄姉の写真は父と母とで写っているものがあるんですが、下の姉と僕は写真がありません。
終戦近くでその余裕がなかったみたいです。
《昭和24年頃の家族写真 左より二人目が母輝子。右父豊。中央下が八洲男》
ご両親はどんなお仕事をされていたのですか。
父は学校の教員をしておりました。
戦時中なので小学校とかではなく、国民学校。
当時、内地より外地の方が給料が良く、内地の倍あったということもあって、父だけの給料で生活できてました。
それが僕が2歳の時に終戦で引き上げてきたんだけど、戦争が終わって生活も苦しく、帰国後は父母共に教員をしていました。
※内地:日本国内 外地:満洲、台湾など
お父様、お母様はどちらの学校にお勤めだったのですか。
荒島のふもとに下山という集落があって、そこは昔の和泉村の入口でした。
そこに複々式学級の下山小学校があり、1,2,3年生を母が担任。
4,5,6年生は父が担任をしていました。
僕は3年生から学校に行きだして、1年間母に習って、4,5,6年生は父に習いました。
この小学校5,6年の頃の全校合奏の写真があって「合奏の原点」と書かれていますね。
《一番左でピアノに座っているのが父、豊 左より二人目小太鼓の位置が八洲男》
そうなんです。
ピアノを一人で弾いているのも楽しいんだけれど、昔は少人数の学校だから全校合わせて20~30人。
父が音楽やってたもんだから、毎年学芸会とか音楽会があって全校生徒でやってました。
父もピアノ弾いて、僕は小太鼓たたいて、あとの人は縦笛とか木琴とか、その合奏が子どもながらに待ち遠しくてね。
たしかにお父さんがピアノを弾いていらっしゃいますね。
ピアノを父に習って、よく父が演奏するヴァイオリンの伴奏をしてました。
私はいきなり楽譜を渡されて、楽譜なんて読めないのにタイスの瞑想曲とか、ゴセックのガボットとか、そんなのを伴奏をして楽しんでいました。
(アルバム資料を見て)中学2、3年生で家にピアノがあるって珍しかったんじゃないですか。
《昭和33年頃 自宅のピアノを弾く八洲男(中学生時代)》
昭和30年頃でね。はじめてピアノが入った時にはうれしくてね。
僕はピアノの下に布団を敷いて、寝て、起きてはピアノを弾いてました。
父は楽器が好きで、そのころエレクトーンが出てきて、その一番初めの型番がDなんとかっていうのだったんだけど、それを買ってきて家においてありました。
発売したばかりの電子オルガンですね。
あとうちの九つ違いの兄がアコーディオンをやっていて、イタリア製のエキセルシャーっていう名器を持っていた。
うちの兄も東京の音楽学校行って福井帰ってきたんだけど。
やっぱり思い返すと音楽が好きになったのは小学校2~3年生ぐらいかな。
昔だから、テレビなんかなくて、週末になると夜に兄がアコーディオン、僕がピアノ、父がヴァイオリン弾いて、楽しくアンサンブルしてました。
母は何にもできないからたった一人の聞き役で。昔の薄暗い講堂でろうそく立ててやってたのを思い出します。
今思うとほんとに楽しく幸せな時間でした。
すてきな経験ですね。中学時代の部活動は吹奏楽や合唱などされていたのですか。
中学校の頃、音楽クラブというとブラスバンドしかなかったんだけど、僕は管楽器なんて吹いたことがない。
だからブラスバンドに入って○○のマーチをやろうというと、ブラスの子は楽器を演奏して、僕がそれをピアノでなぞってアンサンブルしたりとか、そんなことをやってました。
ある時、音楽室で曲を弾いていたら、ブラスバンドの子が僕の所に来て「こいつ男やのにピアノなんて弾けるんや」ってみんなが塊になってピアノの周りを囲んでいた。
昔はね、ひょっとしたら男が音楽やるなんて、という人もいたかもしれないけど、僕の場合は「めずらしいな」って良い方に褒めてくれた。
トルコ行進曲とか間違えながら弾いてました。楽しかったです。
そして高校に進学されて……
うん、大野高校だったのだけど、当時吹奏楽部がなかったの。
同じ中学から一緒に進学したラッパ吹きとかクラリネット吹きとかが「大野高校にも吹奏楽部作ろうよ」って言って。
そのころ高志高校に田川先生っていう人がいて、ブラスの演奏がすごく良くて、当時僕はトロンボーンを見様見真似で吹いたり、ユーフォニアム吹いたり、今でも指使いを覚えているかな。
そんなことがあって将来どうしようか考えていたんだけど、高校2年生の冬に音大の冬季講習会ってのがあって、トロンボーンかついで国立音大の冬季講習会を受けに行ったの。
そしたら周りが金ぴかの楽器ばかりでね。
僕はさび付いたスライドもあんまり動かないような楽器で、恥ずかしかったね。
そしたら講師の先生が「君、今から国立受けるのは無理だよ」ってはっきり言ってくれて、今思うとそれが良かった。
帰ってきてどうしようかと思った時に、福井大学に音楽科というのがあって、僕はあんまり出来は良くなかったけどまぐれで受かってね。
それが教員になるきっかけになったかな。
《昭和38年、福井大学に入学。
当時、福井で唯一のオーケストラであった福井大学フィルハーモニー管弦楽団にてチェロを演奏する》
《福井大学グリーンエコー合唱団の指揮を務め、中部合唱コンクールに駒を進めた》