寺尾敏幸
1938年松山生まれ。愛媛大学教育学部特設音楽科卒業、教育専攻科修了。
愛媛県の高校教諭を経て1970年仁愛女子短大に赴任。音楽学科創設に寄与。
学科長、音楽教育センター長を歴任後名誉教授。全四国音楽コンクール大学ピアノ部門1位。
福井市交響楽団と共演、名古屋フィル・メンバーとの三重奏、ピアノ・二重奏など主に室内楽の演奏活動を行う。
(公財)日本ピアノ教育連盟北陸支部名誉支部長、日本ショパン協会、福井県音楽コンクール、福井県新人オーディション各役員。
平成17年小坂憲次文部科学大臣より、地域文化功労者として表彰を受ける。
1.歌に夢中だった少年時代
寺尾先生が、音楽の道に進むことになったきっかけなどをお話しいただけますか。
私は愛媛県の松山市出身です。
私の音楽との出会いは、ピアノからというよりは歌からです。
母も祖母もわらべ歌や童謡をよく歌ってくれました。
母は電話の交換手をしており、そこで大正琴の習い事をやっていて、いろんな曲を器用に弾いていました。
私の小学校時代はまだ国民学校と言われていた時代です。
小栗町の雄郡小学校に入学しましたが、入学してすぐに空襲を避けるため学校は閉校となりました。
低学年はすぐに自宅に帰れるように近くの公会堂で授業をする事になり、
そこへ担当の先生が出向いて授業する事になったんです。
私が授業を受けた公会堂に来たのが音楽の玉井 旭先生でした。
先生がリードオルガンを奏で、軍歌を弾いて皆で歌っていました。
いつも歌で始まって歌で終わる授業で、私はどんどん歌が好きになりました。
その後終戦となりましたが、学校は立派なグランドピアノもろとも焼け落ちており、
1年生の授業は校区内の神社で行う事になりました。
雨の時は神社の拝殿、天気の日は外で黒板もなく地面に書いて覚えてました。
2年生になったころ集落のお百姓さん総出で木を組んで、藁をかぶせた校舎ができました。
やっとできた校舎に、あちこちに避難させていたオルガンが備え付けられました。
4年生の時、となりのクラスに丸山理子先生が赴任されました。
すごくきれいな先生で、授業中ぼーっとみとれるぐらい。
その頃は童謡歌手の川田正子、川田孝子姉妹や作曲家の海沼 實さんが活躍していた童謡の時代。
丸山先生が放課後伴奏を弾いてくれて、童謡なんかをみんなで歌ってね。
歌も好きだし、大好きな先生に会えるしで、毎日となりのクラスに通いました。
すると先生が本を持ってきてくれて、楽譜の読み方、演奏の仕方を教えてくれたんです。
元々母のやっていた大正琴で音程が分かっていたので、覚えるのも早かった。
10月にオルガンが来て、翌年の3月には全て覚えるぐらい上達しました。
先生がこれからどうしようと悩むぐらい。
思い返すと私を音楽の道に導いた3つの幸運は、一つが母の童謡と大正琴、
もう一つが避難先で毎日歌を教えてくれた玉井先生。
そして演奏を教えてくれた丸山先生。
この3つの幸運が、幼少期の私を音楽人へ導いたといえます。