2.音楽の道へ ~支えてくれた人々

 中学生になっても大きな出会いがありました。
 この時期はなんでも吸収する年代ですが、そこで出会ったピアノの先生が私にクラシックの曲を指導してくれました。

 はじめて取り組んだクラシック曲が「子犬のワルツ」
 難しかったけど、市の連合音楽会で合唱などの演奏と共に私がソロ演奏する機会をつくってくれて、
 おそれなく弾いたわけです。
 先生自身すごく豊かな人で、途中を飛ばして演奏したのに、
 「よお弾いた。時間通りに終わったから良かったわ」とか、とにかく褒めてくれて。

 元々父は華道の師範をしておりましたが、戦中戦後は余裕のない時代で、
 その仕事はなくなり、行商や焼け跡の片づけ作業などで家計を支えていました。
 子供が寝ていると思って、両親が夜にお金の相談をしていました。
 父が母に腕時計を売れないかと相談し、母が14年勤めた郵便局の餞別の品だったので嫌がって泣いていました。


《中学校でのピアノ開きの様子。寺尾少年がショパンのワルツを演奏した》


《学芸会での一コマ。演目は菊池寛の「屋上の狂人」左の学生服姿が寺尾少年》

 中学校3年生になって就職か進学かを決める時期になり、家計を助けるため進路調査に就職と答えました。
 そしたら担任だった数学の先生が自宅に来て、
 「これからは学歴が大事な時代がきます。高等学校には奨学金もあるから、将来自分が働きだしたらお金は返せばいい」って言ってくれたんです。
 それをきいて両親も進学を認めてくれました。
 その先生の助言がなければ、音楽の世界で生きる私はなかったと思います。


 寺尾少年が音楽を心から好きで、才能があると周りが知っていたから、いろんな方が助けてくれたんでしょうね。

 家にはもちろんピアノなんてありません。
 「これだけ音楽が好きな子が、お金の事で将来を閉ざされるのは惜しい」
 と言ってくれて、音楽教室で毎日練習させてくれることになりました。

 ところが学校を建て替える時期になり、音楽室の真下に宿直室が出来たんです。
 宿直の人が休んでいる真上で始終ピアノを弾いているわけにもいかず、
 「もうやめるように」と言われたんですが、私の住んでいる地域の議員さんが、
 「地元の才能のある子供を守らねば」との事で、学校に掛け合ってくれました。
 中学校では無理だけど小学校を使えるように校長先生を説き伏せてくれて、
 小学校の音楽室でピアノの練習が出来るようになりました。
 練習が出来なければ進学も難しかったと思うので、それも大きな転機だったかな。

 小学校の音楽室は運動場の端にあって、
 空いている窓から時々野球のボールが飛び込んでくる中毎日練習してました。
 音楽室には暖房器具が何もなくて冬は寒くてね。
 ある時練習していたら窓の外でなにか音がする。
 なんだと見てみたら、風を防いで少しでも暖かくなるようにと、
 母が家から糊と障子紙を持ってきて窓の隙間をふさいでいたんです。
 そのまま演奏を続けて、ふと気付くと母の姿はなくなっていました。
 練習の妨げにならないよう声もかけずに帰ってたんです。
 “人”として生きる道の暗示のようでした。


《当時寺尾少年が熱心に練習を続けた小学校校舎。中央にある校舎の端に、グランドから野球の玉が飛び込んでくる音楽室があった》


 親心ですね。

 それをみて心にジーンと来ましたね。
 いろんな人の助けがあって自分は音楽を続けてこれた事が分かっていたので、
 「絶対にやめないぞ」と誓いました。
 卒業の時に担任の先生から、
 「これ以上続けるのであれば、ちゃんとしたピアノの先生に習った方が良い」と言われて、
 愛媛大学の望月敬明先生(※後の福井大学名誉教授)を紹介してくれました。
 それまでは音楽の先生とかが、学校の音楽室で無償で教えてくれてたんです。

 さすがに専門の先生となると、塾のような感じでお金のかかる事になります。
 まだ家は貧しかったのですが、父に相談しピアノを習う月謝の500円を出してもらえる事になりました。
 途中で700円に月謝が上がる事になって、また父に相談したら、
 「せっかくここまでやったんだったら続けなさい」と言ってくれて、
 それを先生に言ったら「君は500円でいいよ」と言ってくれました。