坪田信子

福井大学学芸学部卒業。
仁愛女子短期大学保育科、児童教育科講師を経て、音楽学科で35年間教鞭を執る。
この間、ドイツ、フランス、日本歌曲の3分野で演奏表現法の研究を続け、近年は「日本語の歌」の表現研究に主力を注いでいる。
2007年に「げんでん・ふるさと文化賞」、08年に福井県文化協議会「文化芸術賞」を受賞。仁愛大学名誉教授。

1.父と母の背を見て育った幼少期


 お生まれになってからの事を教えてください。

 私は福井市内で昭和18年に生まれました。
 ただ、鯖江に国の軍隊の基地・鯖江36連隊があり、福井はそこに近く、日に日に空襲が多くなって父が危ないと考えたようで、私が2歳の時に父の親のルーツに近い吉田郡の谷口地区に疎開をしました。
 今は永平寺となっていますが昔の下志比村(※)です。
 下志比幼稚園、下志比小学校に通いました。

 ※昭和29年下志比村は合併により志比村に、昭和37年に志比村は再び合併して永平寺町になっている


《信子0歳頃》


 その後、先生は旭小学校に転校となってますが、生まれたところに戻る事になったんですか?

 父が疎開先から福井に出たいという事で、福井に家を買って私が小学5年の3学期に引っ越しました。
 そこが旭小学校の校区です。
 中学校は成和中学校区でしたが、当時母が成和中学、父が明倫中学に勤務していたものですから、
 越境で明道中学校に進学する事になりました。


《信子13歳頃。母留子、弟純一と》

 当時は薄給の代表職のように言われた教職の両親でしたので、家計はかなり苦しかったと思います。
 制服がない旭小学校でしたから洋服を頻繁に購入する余裕がなく、中学校でも着用出来るようブカブカのセーラー服を小学校から着せられました。
 中学2年になってようやく明道中独自の制服の上着を作ってもらいました。

 当時はみんな赤い鼻緒の下駄履き(日和下駄)で、雨の日など直ぐに鼻緒が切れてしまうので、近くにある下駄屋さんまで片足で飛びながら行って鼻緒をすげ替えてもらったものです。
 高校に進学すると今度は全員靴履きとなり、当時は既製品が余りなく、今では逆に贅沢となるオーダーで白い革の靴を作ってもらったのを憶えています。


《同級生斎藤家宅のクリスマス会にて。信子ともう一人だけがセーラー服姿。下から2段目左から2人目が信子》

 父は国語の教員で松岡小学校に長く勤めていて、その後福井市の明倫中学校に転勤しました。
 作文教育に情熱を注いでいて、当時はガリ版を鉄筆でガリガリ削って作文教育の原稿を作るのですが、その削る音が毎夜家の中に聞こえていました。
 貧しかった時代でも何かにつけて本を買ってくれて、私は大好きな物語を何度も読み返しました。

 母は母で、夜父と3人で寝ていると突然ムックリ上体だけ起こして暗闇の中で指揮をしている母の動きで目覚めたものです。
 そのとき取り組んでいた曲の指揮で納得できない部分があったんではないでしょうか。
 父も母もとにかく仕事に一生懸命で、そんな両親の姿を見ているうち、知らずに「言葉と音楽」という影響を受けたのだと思います。

2.歌曲との衝撃的な出会い~音楽を志す礎に

 でも私自身は音楽の道に進むなんて思ってもいなくて、高校から大学に進むとき、当時は一期校、二期校(※)の時代。
 私立に進学する余裕のない私には、二期校は地元の国立大学である福井大学以外の選択肢はありませんでした。

 ※当時の国立大学は一期校、二期校に分かれており、大きくは戦前からの伝統校である一期校、
  戦後に開校した比較的新しい二期校とに分けられていた。昭和53年に廃止

 

《藤島高校時代》

 二期校の福井大学で何を学ぶか考えたらやっぱり音楽科なのかなと言う感じで、
 当時福井大学で音楽の教授だった望月敬明先生の元にピアノの指導を受けに行ったのが高校2年生の3学期の時です。
 一期校受験で見事に失敗して、二期校で受けた福井大学音楽科へは私を含めて3名が合格しました。
 (定員4名)
 他の2人は小さい頃からピアノをしっかり習っていてものすごく上手かったのに、
 私なんてにわかごしらえで大学受験に間に合う曲を選んで練習していただけ。
 こんな中途半端で大丈夫かと悩みながら大学での音楽の学びが始まりました。

 その当時は卒論の一貫として実技の演奏会を催すと言う課題がありました。
 入学して1年が経ったときに3級上の卒業演奏会が附属の明道中学校講堂で開催されたのを母と聴きに行きました。

 南英子さんの歌うシューマンの歌曲集「女の愛と生涯」を聴いたのが芸術歌曲との衝撃的な出会いです。

 もちろんドイツ語なんて全く分からずでしたが、南さんの演奏を聴いてドイツ歌曲に興味を持ち、
 私自身の卒業演奏も「女の愛と生涯」全8曲を演奏。その後もリサイタルで数回は演奏しています。
 シャミッソーの詩は芸術的に高くはないのですがシューマンの作曲で名曲中の名曲となり、
 南さんの素晴らしい演奏により強く心を惹かれたんだと思います。

 ピアノも下手でしたが、他の楽器で言うと弦楽器にも向いてなかったようです。
 大学のヴァイオリンの授業中に学生が20~30人習っている教室で、先生が突然私の手を取り上げて、
 「こういう指がヴァイオリンに最も向かない手です」
 と言って、皆に屈辱的な紹介をされたりしたほどです。

 一方母からは将来学校の音楽の先生になるには吹奏楽の指導もあるから管楽器を勉強しておいた方がよいと言われて、成和中学校で当時母と同僚だった武曽豊治先生(※)と“のりき楽器”に行って、フランスのマーチン社製のクラリネットを選んでもらいました。
 高かったけど母が先行投資で買ってくれたのだと思います。
 初めて吹いた時は全然鳴らなかったけど、武曽先生の指導でなんとか鳴らせるまで練習して、
 福井大学のオーケストラで万年三番クラリネットをやってました。

 ※成和中学校吹奏楽部指導他、ジャズバンドの主宰などを行ったクラリネット奏者


 先生はクラリネットをやってたんですね(驚)

 なんでフルートって言われなかったんでしょうね(笑)
 それはやっぱり武曽先生がクラリネット奏者で、長い間母と同僚で親しかったからでしょうか。

 当時、武曽先生は浦井和美先生(※)と一緒に福井市吹奏楽団を立ち上げていて、
 私はそこにも参加させていただき、東京の普門館で行われた全国大会にも行ったことがあります。
 主催の朝日新聞社から交通費が支給されていたんですが、急行代金を浮かすために周遊券の普通列車で、行きは10時間以上をかけて上京しました。
 帰り途中停車で2時間ほど待たされた長野駅で、プラットホームから手の届くところに美味しそうなリンゴの実が沢山成っていたのを懐かしく思い出します。

 ※成和中学校吹奏楽部指導や福井市交響楽団指揮など務める


《福井大学音楽科卒業演奏会(福井市公会堂)での記念撮影
 前列右から3人目が信子、隣が望月敬明教授。前列左端が後に夫となる健夫。後列中央が清水八洲男氏》

 結局私は福井大学を卒業して教員になり、1年6ヶ月だけ公立の国見小学校に勤めました。
 昭和40年に卒業した年、仁愛女子短期大学が開校したんです。
 開学当初は家政科のみでしたが、翌年に保育科が出来ました。
 その年の夏に望月先生から電話があって、
 「声楽は必須科目で、音楽の先生が必要だから仁愛短大に行かんか。好きな歌の勉強が出来るぞ」
 って言われたんです。

 当時も教員採用試験合格率がものすごく低く、そこに現役で受かって教員になったばかりなのに勿体ない! とすぐに思ったけど、確かに声楽の勉強が出来るのは魅力的だな、困ったどうしようとなかなか決心がつかず……。

 両親からは公立と比べて私立は将来的に不安定で危ないと言われました。
 望月先生への返事の日が迫って悩んでいる私を見て、最終的に母から、
 「あんたの好きな道に行きなさい」
 と後押しされました。

 一大決心をして昭和41年8月31日を以て公立学校を辞めて、
 9月1日から仁愛女子短期大学に転職しました。