4.恵まれた師についての想い

 教員になってからもう一度、城多先生に歌の先生を紹介して頂いたのが川崎静子先生(※)でした。

 ※日本の声楽家(アルト)、歌手、オベラ歌手、音楽教育者
  東京藝術大学名誉教授、名古屋音楽大学教授を務めた。二期会創設者の一人

 その頃、初めて新幹線が開通し東京へも行きやすくなり、私は1ヶ月に一度赤坂にあった川崎先生宅に通うことになりました。
 お隣が常磐津のお師匠さんの家で、いつも三味線の音が流れていました。
 玄関口でベルを鳴らすと、女中さんが出てきて門を開けてくれました。
 先生がロイヤルミルクティを出してくださって、それを飲みながら川崎先生と色んな話をしました。
 当時は人財確保法(※)が発令されて、差額がボーナスを上回って支給され、教員の生活に少し余裕が出た時代でした。

 ※高度経済成長によって民間給与が上昇し、教員不足の懸念解消のため田中角栄内閣によって成立
  これにより教育職員給与が25%引き上げられた

 仁愛女子短期大学に音楽学科が発足させることになって、それで学生を集めるために著名な教授を迎えるようにと大学から言われました。
 私は川崎先生にお願いに行くと、
 「私は今、他の大学からも依頼されているのよ。私の後輩を紹介するわ」
 と言われて、笹田和子先生(※)を紹介されました。

 ※日本の声楽家(ソプラノ)、オペラ歌手、音楽教育家
  京都市立音楽短大、京都市立芸術大学教授を経て仁愛女子短期大学音楽科科長、宝塚音楽学校講師を務める

 その笹田先生から、
 「私がレッスン出来るのは月に1度で、その他の週はあなたが担当するのだから私の指導法を学びに来るように」
 と言われて、そこから判で押したように毎週火曜日の14時台の列車で17時前頃に大阪の笹田先生宅に。
 レッスンは30分くらいしかないんだけど、終わるとトンボ返りで帰りの列車に乗る……という生活が15年ほど続きました。

 40歳の時に大学の夏休みを利用した海外研修でウィーンに短期留学(42日間)をしたんです。
 そこでチャールズ・スペンサー氏(※)との出会いがあって、
 本当に音楽的な才能があり指導もすごく上手いと感じたので私は臆することもなく彼に、
 「福井に指導に来てください」
 って手紙を書き、翌年から呼んだんです。

 ※ピアニスト、伴奏家。後にウィーン国立音楽大学リート科教授

 毎年呼んで30年間続きました。
 「お寿司とシンスケ(※)が好きだから僕は福井に来るんだよ」
 っていつも言ってました。
 チャールズは6ヵ国語を話せるのに日本語だけ覚えが悪くて小牧伸輔先生の通訳がすごく気に入ったようです。

 ※小牧伸輔(テノール)後に仁愛女子高校音楽科教諭。福井オペラ研究会代表、福井県合唱連盟理事長などを務める

 つらつら考えると、私は本当に人とのご縁が大切だと痛感しています。
 他にも三上かーりん先生(ドイツリート解釈)や瀬山詠子先生(日本歌曲)など、
 音楽的にも人間的にも卓越した先生達がこれまで私を導いてくださり、偉大な恩師にはとにかく恵まれた音楽人生でした。


《左より信子、スペンサー、小牧。2009年に開催した小牧氏とのジョイントリサイタルプログラム表紙から》

5.夫との出会い ~共に歩んだ教師時代


 旦那様(健夫氏)とは大学時代の同級生だったんですね?

 はいそうです。
 主人も城多先生のところへ一緒にテープを送って指導して頂きました。
 主人の歌について城多先生の指導された録音テープを私も一緒に聴いていました。


《卒業演奏会での坪田健夫氏。ピアノ伴奏は清水八洲男氏。演奏曲はシューベルト歌曲集「冬の旅」より7曲抜粋》


 先ほどウィーンでの短期留学の話が出ましたが、先生は旦那様のご飯を全部作り冷凍して準備したと言う話を聞いたんですか本当ですか?

 そうそう、一人娘もまだ小学生で主人の母も居りました。
 渡航前夜はその作業ででとうとう徹夜になってしまいました。
 傷みやすいものから順に食べるようにメモで書き記し、最後の1週間は買って来たものを食べるようにしてもらいました(6週間の留守)
 子どもがいる身で海外研修に行かせてもらうなんて普通じゃない時代で、それくらいしか出来ないなと思ってましたね。


 坪田健夫先生は当時春江中学校ですか?

 そうです。
 16年間春江中学校に勤務して、そこから福井県教育研究所に行きました。
 そこから丸岡と三国の小学校に行って、最後は春江中学校で定年を迎えました。
 春江中学校の16年間では、清水八洲男さんなどと同じ吹奏楽指導者として良きライバル関係だったと思います。

 主人の吹奏楽指導の想い出はいっぱいありますが、とにかく毎年8月末に全国大会が終わっても練習を休むのは3日間ぐらい。
 すぐ次の曲の練習に入ってしまう。朝も晩も練習、練習。
 朝早くから夜遅くまでかかりっきり。
 夜に帰ってきた時は車を車庫に入れるとき窓を開けるためカーステレオ(その日の練習録音テープ)の爆音で主人の帰宅を確認したものです。
 土日も、全くない生活が10数年続きました。

6.指導者として、表現者として 生涯続く闘い


 健夫先生もすごかったようですが、坪田(信子)先生もすごかったですよ。
 普通大学の授業時間は決まっているのですが、先生の場合は出来るまで延長して指導して頂きました。

 昔は優秀な人が音楽大学に進学していましたが、その後時代が変わって私立の音大へはお金のある人が進学する事が多くなりました。
 伸びていく人というのは、どこへ行ってもその人が持っている伸び代の問題で、そこで出来ない人にこそ教員の助けが必要になると思っています。
 だから出来るのは本人の力、出来ないのは教員のせいだと私は思っているんです。


 私たちが短大に入って先生に指導していただいた際、とにかく褒めて伸ばしていただきました。
 なかなか高音が出ない私に、出来るまで先生が付き合っていただきました。
 いろんな著名な先生に指導していただけたのも、坪田先生が福井の田舎に良い指導者を呼んできてくださったお陰だと思います。

 私は向こう見ずで、とにかく一流の人にも物怖じせずに声をかけて、福井の美味しいもので釣る(おもてなし)のが私流(笑)


 私は、坪田先生に教えていただくのが一番合っているんだと思うんですが、先生は卒業したら絶対指導せず、次へ進みなさいと言われてしまう。

 力のある人は自分でどんどん切り開いていけばいいんです。
 出来ない人にこそ手を差し伸べるのが教員の役目なんだけど、それがなかなかうまくいかないの。
 私は短大の音楽学科で述べ40年勤めましたが、ずっとそことの闘いだったと思います。


 最後に、今の福井の音楽関係者や音楽界について。
 今後こうなれば良いとか、こうしていけばいいとか、そんなご意見はありますか?

 私は今、歌うことから離れて2年くらい経つので余りもの申すのはおこがましいのだけれど、
 やっぱり若い人には好きな道ならばそれを続ける事が大事だと思います。
 一方で生業は何らかの方法で立てて生活して行かないといけないですね。
 でも好きならば苦も苦でなくなり障害を乗り越えて行けると思います。
 そうやって全力で取り組んでいれば絶体に周りの人が助けてくれるものです。

 音楽は人に見ていただいて、聴いていただいて、共感していただき喜びを分かち合うものだから、
 どんどん表に出て自分を表現してほしい。

 私が昔、南さんのドイツリート演奏を聴いて、
 「いつかこの曲を歌ってみたい」
 と思ったのが歌を続ける原動力になったように、自分の歌(音楽)が他の誰かに、
 「よい曲だね、こんな曲に出会って良かった」
 と想いが繋がる積み重ねをしてもらえたら嬉しいです。

 私も振り返ってみれば迷いと失敗の連続で、何をしてもこうすれば良かったとか、次回はこうしようとかがしょっちゅうでした。
 満足することはあり得ないのではと思います。
 そして又少し先に進むという、一生の闘いかもしれないですね。
 皆さんも、是非自分で良い先生、指導者を見つけてほしいと思います。

【2021.07.29 インタビュー】