3.母の背で聴いた歌、自分もその道へ
先生の歌との出会いの原点はどこにあるんでしょうか。
私は小さい頃よく中耳炎を起こして、当時住んでいた谷口から九頭龍川沿いに県道をさかのぼった、轟(どめき)地区の耳鼻科医院に連れられて行きました。
勤務先(志比中学校)から早めに帰宅した母が、私と手をつないで県道を2kmくらい歩いて連れていってくれました。
母と一緒なのが嬉しくて行きはスキップしながら楽しかったんですが、帰りは治療が痛くて泣きながら母の背中に負われて帰りました。
田舎の砂利道を歩きながら、母は泣いている私を慰めるために歌を歌ってくれたのですが、薄暗くなった県道に覆いかぶさるように垂れている木々が怖くて、母の背中にピッタリ顔を埋めて母の歌を聴いていました。
その背中越しに聴いた母の歌が私の歌のルーツです。
《信子8歳頃》
素敵なお話ですね。その後歌を習う機会等はありましたか?
子ども時代は歌を習う余裕も機会もなくて、大学入試直前に課題のコールユーブンゲン(※)を1ヶ月くらいのにわか勉強で歌った程度。
その入試では1ヶ所間違って歌ってしまい、絶対ダメだと思ってたんだけど、何故か受かってました。
だから歌も中途半端にしか勉強してなかったです。
大学で学び出すまでソプラノとメゾソプラノの違いもよく分かってなかったくらいです。
※ドイツの音楽家フランツ・ヴュールナーが刊行した合唱指導教本の第1巻(全3巻)
当時、福井大学には中央や他県から特別講師の派遣授業があって、特講の先生が来られると1週間毎日指導があったんです。
城多又兵衛先生(※)もそのお1人で、先生からはものすごく可愛がって頂き、
「1人で夕食を食べても美味しくないから付き合ってくれ」
と言われて、同級の坪田健夫(後の信子夫)と2人で毎晩のようにご馳走になりました。
多分私達2人が歌を頑張っていたからだと思います。
放送会館の地下にあった「紅長」と言うお店でも贅沢なトンカツを食べさせて頂きました。
※日本の声楽家(テノール)、音楽教育者、音楽学者、作曲家
東京藝術大学音楽学部声楽科教授、愛媛大学、大阪大学、京都学芸大学などで教鞭をとり、多くの声楽家を育てた
その当時、ソニーが家庭用の小型録音機(オープンリール)を初めて発売して、母が勉強用にと購入してくれたんです。
小型と言っても5㎏ほどあり、持ち歩くには重すぎて自転車の荷台にくくりつけて毎日大学の行き帰りをしていました。
そんな時城多先生が、
「僕のところにテープを送りなさい。録音を聴いて直すところを吹き込んで戻してあげるから」
と言ってくださいました。
と言うのも、当時の福井では本格的にドイツリートに精通した指導者が居なかったんです。
先ほど言ったように私は先輩である南英子さんの演奏に衝撃を受けてドイツリートに惹かれていったんですが、それを習う機会がなかったんです。
そんな経緯もあって、城多先生の所に歌を録音したテープと空の生テープを送ると、先生は2台の録音機を使って一方で私の録音を流しながら、もう1台の方で空テープに修正する箇所(ドイツ語の発音、解釈、発声法など)をマイクで吹き込んで返送してくれると言うレッスンをしていただきました。
すごい(驚)今のオンラインレッスンみたいな事を当時されてたんですね。
ほんとうに良い先生に恵まれました。
城多先生から「君は芸大を受けたらどうか」と言われて、芸大なら国立なので両親も行かせてあげたいと思ったみたいで、
城多先生の紹介で浅野千鶴子先生(※)の元にレッスンに行く事になりました。
※日本の声楽家(ソプラノ)、音楽教育家、東京藝術大学名誉教授
東京へは夜行列車で行くような時代で、大きな荷物を持って到着した東京は土砂降り。
おまけに浅野先生のご自宅は高級住宅街で、殆どが屏囲いのため見分けがつかず、
雨降りもあって人通りも全くなく私は半泣きになってお約束の時間には大分遅刻してしまいました。
ようやく先生の前で歌を聴いてもらっていると、私の次のレッスン生が入ってきたんです。
その人の格好がすごく身軽で、小さな手提げ一つだけの本当に垢抜けした可愛い感じを見て、
「私は本当に田舎者なんだ」と打ちのめされてしまいました。
その上、大学で教えて頂いた先生(非常勤)からは、
「近頃コールユーブンゲンは音名で歌うようだ」
と指導されていて、浅野先生の前で歌いだしたところ、
「あなたは何をやっているの。その歌い方は間違っているわよ」
と呆れられてしまいました。
次に歌ったイタリア歌曲では、
「歌は良さそうだけど、芸大に受かるかどうかは五分五分だし、
それには毎週レッスンに来ないといけないです。
そこまでして芸大に入学しても演奏家になれる人はほんの一握りよ。
残りは殆どが教員を目指すのよ。
あなたは既に教員養成の大学に入っているのだから今さら勿体ないわよ」
とも言われました。
私の家は貧しくて、小学校ではブカブカのセーラー服を着せられ、
セーラー服ではない中学校では2年生でようやく独自の上着を作ってもらった。
それを更に作り直して高校用のセーラー服にするほど困窮した家でした。
また、その頃両親が家を立て直すために乏しい給料から積み立てていた貯金を切り崩して私の学費を出していたのも承知していました。
「こんにちは!」
と入ってきた東京の女の子の姿を見て、全てに余りの差がある事に気付かされた私は、
「芸大を受験するのはやめた!」って決断しました。
《福井大学卒業時。母朝日留子と》