3.「おまえが大きくなるんであれば、家を出てよろしい」

 望月先生の勧めもあり、コンクールに出る事になりました。
 当時四国にはコンクールがなく、初めてのコンクールは高校3年生の時に受けた福岡での学生コンクールです。
 下関にある古い親戚を頼り、その親戚がピアノのある個人のお宅に話をしてくれて、ピアノを借りることが出来ました。
 コンクールはさほどうまく弾けず、点数は最下位。
 帰って先生にダメだったと伝えると、
 「1位になるためじゃない。君の役に立ったのならばそれで良かった」
 と言ってくれました。

 大学になって四国にも全四国音楽コンクールが出来ました。
 四国4県場所を移しながら開催されるコンクールで、徳島でベートーベンを演奏して2位。
 翌年の高知のコンクールで、バッハの曲を演奏して1位になることが出来ました。

 大学2年の時に特設音楽科ができましたので、そこから4年間特設音楽科、
 その後教育専攻科に入り、大学には7年通いました。
 親戚に教師が多かった事もあり、自分が教師になる事にはなんの抵抗もなく、
 愛媛の新居浜市の高校で教鞭をとることになりました。


 そこからそれまで関わりのなかった福井の地へ来ることになったのには、なにか訳があったんでしょうか。愛媛を出る事に葛藤はなかったですか?

 仁愛女子短期大学が音楽学科を創設するタイミングで、徳岡正之さん(※愛媛大学特音時代の友人)が恩師望月先生の書状を携えて私をスカウトに来ました。
 手紙には「君の目指す道を進み続けるなら、福井に来ないか」と書かれておりました。

 徳岡さんには一週間泊まり込みで説得されました。
 私は長男ですし、地元に勤める事もできたので悩みました。
 親に相談したら、「望月先生の導きならばいいんじゃないか。もう一晩考えろ」と言われ、
 その夜は父と枕を並べていろんな話をしました。
 「福井までどのぐらいかかる?」と聞かれ、9時間半と答えると、
 「だったら高知に行くようなもんじゃ。おまえが大きくなるようであれば行ってよろしい」
 と言ってくれました。
 父は戦前華道を教えるため、あちこち歩いて出向いていました。
 愛媛と高知の県境にある久万高原を超えて高知に行くのですが、当時は久万まで歩いて9時間かかっていたそうです。

4.新しい街、新しい学校、新たな仕事


 仁愛女子短期大学の音楽科創設について、ご苦労などありましたか?

 福井だけでは生徒が集まらないので、全国をまわりました。
 私の担当は四国と関西でした。
 6年間の高校教員時代にブラスバンドの指導をしたので、その時の繋がりが生かされました。
 当時の先輩達に話を聞いていただく事が出来ました。

 音楽科では演奏を教えるだけではなくクラス担任になっていて、
 学生全体に目を配る必要がありました。
 一クラスは20~30名程いたでしょうか。
 教員には平等性が必要で、たとえ苦手なタイプであってもしっかり指導しなければならない。
 嫌いをつくらない事が大事だと思いました。


《仁愛女子短期大学指導者時代》


 先生が指導者として心がけていた事などありますか。

 自分が分からないまま教える事は苦痛です。
 それがないよう自分も日々学んでいたつもりです。

 どこか一点を分かるように説明したり、筋肉の一カ所の力を抜く、
 それだけで弾けない曲が弾けるようになったりします。
 相手がどこに躓いているのか、どこに問題があるのか、
 そこを見つけて解決してあげるのが指導者の役割だと思います。

 指は10本あり、それぞれが役目を背負っています。
 今この指は何をしようとしているか、一つ一つの指の役割、
 それが分かっていればおのずと演奏は上達します。