2.指導者生活のスタート~音楽活動の本格化



《福井国体の翌年、昭和42年、初任校である松岡中学校に赴任。初めての吹奏楽指導を行う。
当時、諸般の事情により、授業では音楽ではなく苦手な数学を教えることになり、電車の中で参考書を開いて必死に覚えたそう。そして、丸岡中学校に赴任する》


 丸岡中学校では吹奏楽部をご指導されて素晴らしいバンドに育てられたと思います。
 その頃の思い出をお聞かせください。

 その頃、武曽豊治先生が指導していた成和中学校の全盛期。
 武曽先生から「清水君これからは君たちの時代だよ」って言われたのは覚えてます。
 成和中学校の次に全国大会に行ったのが丸岡中学校(昭和45年)だった。
 その頃は若かったので生徒にも厳しかったけど、自分も勉強しながら一生懸命だった。


《丸岡中学校吹奏楽部 昭和45年全日本吹奏楽コンクール全国大会 東京渋谷公会堂にて》

 音楽というのは生半可な知識と、感覚では生徒が見破るから。
 だから自分が今音楽の力がどれだけあって、その何パーセントを彼らに渡せるか。
 あんまり指導技術とかではなく、自分の一生懸命の姿が分かればいいかなぐらいの感じで、演奏する事の楽しさを教えていました。
 だけどその頃はすごくスパルタで、体罰はないけど怒ったりはあったかな。
 卒業してから昔の生徒が「先生あの頃は厳しかったけどやってよかったです」っていう一言を同窓会なんかで言われるけど、やっぱりうれしいものですね。


 全国大会などにも多数出場されていました。コンクールでのエピソードをお願いします。

 当時、他県の中学校の自由曲なんか見るとすごい大曲ばかり。
 一番初めに出たころは管弦楽のアレンジ物ではなくて吹奏楽オリジナルをやって、それはそこそこいい音だったけど。
 その次ぐらいからチャイコフスキーをやったんだけど、他の学校のレベルが凄くてね。
 銅賞になったのが一回で、あとはなんとか銀賞になった。
 その頃というと酒井正幸先生の豊島十中とか、渡部修明先生の出雲一中とかすごかった。
 丸中は丸中の範囲でしかできない事をやるしかないと思った。
 昔は決まった会場ではなく、全国大会も各地方の持ち回りだった。
 僕が最初に行ったのは今はもうないけど渋谷公会堂。
 そのあと、大阪のフェスティバルホールとか、名古屋の市民会館とか。
 最後に行ったのは秋田の県民会館。
 だいたい全国大会というと11月3日と決まっていて、秋田がめちゃくちゃ寒くて夜寝れなかったのを覚えている。
 昔N響にいた大橋幸夫先生(クラリネット)に講評で「これは将来性のあるバンドだ」と書かれていたのを思い出す。
 金管にはトランペットの谷口浩和君とかが入っていました。


 丸岡中学校の後、今度は三国高校に赴任されました。その頃のことを教えてください。

 私は退職するまで音楽の教員で部活動に関わっていたいと思い、中学校の時に三国高校にいた有馬寿一先生にそれを伝えました。
 そして三国高校に異動になりました。
 その頃の卒業生にはトランペットの小原貞一君(福井交響楽団トランペット奏者)がいたと思う。
 そのあと私は三国高校に10年勤めさせていただいた。


《三国高校吹奏楽部 昭和59年福井県吹奏楽コンクール 福井市文化会館にて》


 「昭和56年から平成2年まで」と書かれてますね

 その頃の三国高校って、坂井郡のあちこちから生徒が来ていた。
 春江から来た久保貴嗣君(福井交響楽団ホルン奏者)とか、金津から来た平田昌彦君(丸岡南中学校教頭)とか、彼らが歴代の部長をしていた。
 アルトサックスの笹木幹哲君(金津ジャズ倶楽部)の時に、北陸吹奏楽コンクールで金賞の上から4つ目ぐらいで残念ながら全国行けなかった。
 三国高校でもずいぶんしぼったね。
 又、それまでは定期演奏会はしてなかったようだけど、せっかくだから定期をやろうとなって、今のみくに未来ホールの駐車場に建っていた社会福祉センターで演奏しました。


 三国高校での特別な思い出ってありますか

 この頃はだいぶ疲れてきたね(笑)
 家に帰るのが午後8時ぐらい。その頃の部活はどこもすごかった。
 僕もがむしゃらやったけど、生徒もがむしゃらだったね。


 そのあと藤島高校に?

 実はその後、福井県教育研究所に5年間勤務しました。


 部活がない分、その頃は自分の演奏活動をする時間もあったんじゃないですか。

 そうですね。その頃は時間になったら帰れるから。
 面白かったのは、今はそんなことしちゃだめだろうけど、研究所の舞台で小さなオーケストラと合唱を呼んで、モーツアルトの戴冠ミサ曲とか練習した覚えがある。
 その頃って結構自由で、夜になっても使っていいと言われて。
 音楽の教員指導だから、そういう人を集めて合唱だったり、器楽アンサンブルだったり、指導方法というより、楽しむことをやってもらった方が良いかなと思い、そういう講座をやりましたね。


 ジュニアオケもその頃ですか。

 福井ジュニアオーケストラが出来たのは三国高校の時代です。
 もちろん一人ではなく何人かで創った。
 実はジュニアオケ発足の契機は、1979年国際児童年を記念して、福井にもちびっこのオケを創ろうとなって、初めての発表を福井市文化会館でやった。
 その当時交歓演奏会で、福井市と姉妹提携していたアメリカのニュージャージー州にあるニューブランズウィック市に演奏に行ったりしました。


《福井ジュニアオーケストラ 昭和57年頃 国際児童年を記念して結成 福井市文化会館にて》


 (アルバム資料見て)この福井市交響楽団というのは、今の福井交響楽団とは違うんですか。


《昭和52年 福井市交響楽団第4回定期演奏会 福井市文化会館にて》

 福井市交響楽団は1970年代に10年ぐらい続いたのかな。
 オーケストラというと福井大学フィルハーモニーしかなかったときに、浦井和美先生に「清水君、福井にも一般のオーケストラを創らなあかんわ」と言われて、福井大学のOBに呼び掛けて発足した。
 その当時は僕もチェロを弾いていた。
 一番前に座ってるけどうまく弾けなくて、えらい指揮者が中央から来てよくビビった(笑)


 この第九は?

 「福井でも第九を!」のもと、プロオケが来て、合唱団を結成して第九を創った。
 その当時は10年ぐらい続いたのかな。
 私は合唱に入りバスパートを皆勤で勤めました。


《昭和56年 第7回ベートーベン交響曲第九番演奏会 福井市文化会館にて》


 ちょうど40年前ぐらいですね。私も参加しました。写真載っているかも。
 藤島高校の管弦楽団も先生が創ったんですか。

 そう。たまたま藤島高校の生徒の中に、オーケストラアンサンブル金沢のヴァイオリニスト・杉本とし子先生のお弟子さんが2~3人いたの。
 その子たちを中心に、チェロはユーフォニアム吹いていた生徒に弾いてもらって、コントラバスはブラスから引っ張ってきて。
 それが一番最初のきっかけかな。

 
《藤島高校弦楽部指導中の一コマ》

 あとは吹奏楽と合唱の両方を指導していました。


 (驚)合唱部も中部コンクールに出場されてますし、すごいですね。
 先ほど三国高校時代に疲れたって言っていた割には、すごいご活躍です(笑)


《藤島高校合唱部 平成9年中部合唱コンクール 金沢市観光会館にて》

 だいたい音楽の教員というのは音楽の授業をするのは当たり前だけど、学校終わると他の事をやりたいという人も多い。
 それはその人の生き方で良いんだけど、僕の場合はスポーツできるわけでもないし、釣りが好きでもないし、野菜つくるわけでもない。
 僕の場合はうちへ帰ってからが自分の好きな音楽。
 オーケストラだったら土曜の夜に集めてやろかとか。
 日曜の夜とか練習終わったら夜の9時で、明日朝から授業あったりとか。
 そんな感じだけど楽しくやってきた。
 病院の中で患者さん前に演奏したりとか、幼稚園行ってやったりとか。
 みくに文化未来館でも合唱団と一緒にやったね。