3.宗貞はダメになった

 その時カクメ楽器店はオヤジさんが一人で頑張り始めている時代。
 大きな楽器屋への対抗意識もあり、カチンときた私はカクメ楽器店にお世話になる事にしました。
 ちょうどその頃、高校時代の先輩が福井大学のオーケストラで演奏していて、望月敬明先生(※)が指揮する「アルルの女」を演奏するので、エキストラで来てほしいと言われて行きました。

 ※福井大学教授。わらべ歌についての著書出版の他、校歌の作曲なども手掛ける


《福井大学定期演奏会、一番後ろの一番左側が宗貞啓二、指揮は望月敬明》

 サクソフォーンはビブラートをかける楽器なんですが、当時福井の吹奏楽ではまだビブラートをかけて演奏する人はいなかった様に思います。
 自分はレコードなどで、ビブラートがある事に気が付いて独学で練習していました。
 そういう事もあって、福井のサックスプレーヤーとしては上手な方と見られていた様です。

 その当時は福井でもバンドマンが活躍している時代。
 僕が仕事をしていたカクメ楽器にもバンドマンが来て親しくなりました。
 僕は楽器も吹け、楽譜も読めていたので、彼らからエキストラで呼ばれて演奏をする様になりました。
 後に楽器屋を辞め大学受験のため浪人をするのですが、夜の時間はバンドマンとして掛け持ちの生活になりました。
 当時大卒の初任給は2万円くらいでしたが、私は4~5倍もらえていたように記憶しています。
 私が演奏している時、店の隅で他のプレイヤーが聴きに来ることもあり、バンドマンとしては認められていた様です。
 しかし、バンドマンとしての私は陰で「宗貞はダメになった」とも言われていた様です。


 そこでもカチンときたんでしょうか(笑)
 その性格が先生の人生に大きな影響を与えてますね。

 楽器屋をしていたら学校の先生方と知り合えるじゃないですか。
 先生とのお話の中で「演奏を本格的にやりたいんだったら、夜学でもなんでもいいから音大に行くべきだ」と言われたことが音大受験を決意させた様です。


《アマチュア演奏家時代、左から2人目が宗貞啓二》

 アドバイスをくれた一人に清水八洲男先生(※)がいました。
 音大受験となるとピアノを始めなくてはならず、未経験の僕は清水先生の門を叩きピアノの指導を受けることになりました。
 全くピアノがダメな私でしたが子供が初めて使う教本から始めて頂き、半年でバイエルまで進めたことは清水先生の大きな力であると感謝に絶えません。
 (多分清水先生の生涯一番ダメな生徒だったと思いますが……)
 国立音楽大学を受験しましたが、見事に失敗。
 2部(夜学)も受験し、まぐれで合格することができました。

 ※指揮者、演奏者として県内音楽界で活躍。音楽指導者として多くの人材を育てた。さかいおんがくノートに1冊目に登場