4.三つのきっかけでプロの道へ

 演奏家として、プロになるきっかけについて、僕は三つあったと思います。

 一つは、僕はサラリーマンを2回辞めたので、3回目はない。
 音楽の道で生きていくしかないが、そのためにはどうすればいいのか。
 人より上手くなるしかない。
 そのために人より練習するしかない、そう思って練習に励んだ。
 その考え方が出来た事。
 夜学は、本来昼に働いている人のための学部で、授業はだいたい夕方6時ぐらいから始まります。
 お昼はずっと空いているので、練習室を借りてこもりっきりでやってました。
 一人があまり長い時間借りると怒られるので、絶対に来ない人の名前を借りて練習室を申し込んでいた(笑)

 プロになるきっかけのもう一つは、毎日音楽コンクール(※)で一位に入賞してしまった事。

 ※現日本音楽コンクール。日本国内における権威と伝統のある音楽コンクールのひとつで、若手音楽家の登竜門として知られる

 僕の大学でのサクソフォーンの先生は大室勇一先生(※)でした。
 日本人として初めてサックスでアメリカに留学した人で、先進のサックス技術を日本に伝えた私の大師匠です。
 その先生から「コンクールを受けないか。受けるならば良い成績を取って欲しい、君が評価されたら僕も評価されるから」と言われました(笑)

 ※東京藝術大学大学院修士課程を修了。留学生としてアメリカのイーストマン音楽学校ならびにノースウェスタン大学に学んだ。1987年47歳で没

 僕も受けるならば上に行きたいと思いましたが、毎日音楽コンクールで本選に残るなんて並大抵の事ではない。
 藝大生(東京藝術大学)の優秀な人の事も聞いていたので、彼らを超えるなんて難しいとは思っていた。
 大室先生がちょうどその頃におさらい会を開いてくれて、藝大のコンクール受験者と一緒に演奏する機会を持たせて頂いた。
 その時に「彼らも雲の上の存在じゃないな」と感じた事を覚えています。

 大学の2年から3年になる春休みにコンクール本選の曲を練習し始めました。
 その後、1次審査の練習を始めました。
 1次審査を通ったのは5~7人ぐらいだったと思います。
 2次審査の曲は一番やってなかったですが、あの当時は1次と2次審査の間に1週間ぐらいあって、そこで根性でやりました。
 本選に残ったのは、オーボエが二人、ファゴットが二人、サックスで僕が一人。
 ファゴットの一人は東京交響楽団の首席奏者だった方でした。
 控室では他の人は朗々と練習しているのに、僕は一人で部屋の隅で練習してました。


《毎日音楽コンクールにて》

 コンクールが終わって、結果はその日の夜9時のNHKニュースで発表されました。
 夕方5時ぐらいに大室先生から寮に電話があり「君が一番だよ」と言われました。
 「そんなはずはない、冗談でしょう」とか言っていたら「今から行くから」と先生が大宮から寮まで来て、大学関係者が絶対に来ないような小さなお店に行って、そこで二人で祝勝会としてお酒を飲みました。
 寮に帰ってみたら大騒ぎ!
「どこに行っていたんだ!お前がいないと始まらないよ」と、そこからみんなでどんちゃん騒ぎ。
 大学の他の先生も一升瓶をもって来て参加してました。
 なにしろ国立音楽大学から管楽器で毎日音楽コンクール一位をとったのは初の快挙。なので皆で喜んでくれました。
 自分では演奏が上手かどうかの自信があったわけじゃないけれど、やはり一位になって日本一という事になるとかなりのステータス。
 だから、そのコンクールの結果によって強引にプロにさせられたという気がします。

 あまり経験を積んでいない自分が一位になり、このままプロとしてやっていくのはやばいんじゃないか、と思って留学を考え始めました。
 卒業してすぐに日本を離れると、宗貞啓二が忘れられてしまう。
 1年間はプロとして活動し、宗貞啓二の名を日本に残してからフランスに行くことにしました。

 フランスを選んだ理由は、その当時クラシックサックスはアメリカよりもフランスが先進だったから。
 フランスでは、ジャン=マリー・ロンデックス先生(※)に指導していただいたんですが、日本にいる時に彼のレコードを聴いて衝撃を受け、留学するなら彼の所にと決めてました。
 先生からは普通の演奏表現だけではなく、理論的にフレーズの創り方などを基礎から教えていただきました。

 ※フランスのクラシック・サクソフォーン奏者。国際的なサクソフォーン奏者の草分けといえる存在

 それまでは、無我夢中で演奏していた部分もあったんですが、そこで上手な演奏というのはどういう事か、良い音楽とは何かという事を自分で理解できる様になったのかもしれません。
 だから、日本に帰ってはじめて凱旋コンサートをやった時に、自分の演奏について明らかな手ごたえを感じたし、プロとして自信をもって演奏ができるようになりました。


《フランス留学中のハロウィンにて、左のゾロに扮しているのが宗貞》

 留学が僕に自信を与え、プロ奏者になる自覚を持たせました。
 プロプレイヤーとなるきっかけの三つ目がこの留学経験です。

5.神様がもうちょっと若いうちにこの能力を授けてくれれば

 今、私は74歳で、指がジストニアっぽくて、中指を使わない奏法に切り替えています。
 ただ、他の指も動きにくくなり、目も見えにくい、頭の回転も遅い、そんな感じで体は衰えてきました。
 しかし、音楽の良し悪しを見る力は以前より増しているように感じます。
 神様がもうちょっと若いうちにこの能力を授けてくれていれば、もっとレベルの高い演奏が出来たんじゃないかと悔しい気持ちです。


《1999年の演奏会にて》


 確かに。でも今の年齢だからわかってくることもあると思います。
 福井での活動についてはいかがですか。

 以前は福井高校での指導もしてましたが、今はおこなっていません。
 福井サクソフォン研究会の音楽監督も行っていますが、コロナ禍以降少し活動を縮小しているみたいです。
 後は、お隣石川県の金沢サクソフォンアンサンブルの指導もおこなっています。

 昔は福井市吹奏楽団の指導を依頼されたこともありました。
 その時、島崎信夫さんという同級生が春江吹奏楽団(現:春江ブラスコンコード)の中心にいて、彼から呼ばれて指導をしました。
 だからこのハートピア春江も懐かしいです。
 清水八洲男先生との交流も続いていて、福井サクソフォン研究会の定期公演で客演指揮をしてもらったこともあります。