3.指導者としての道へ

 国立音楽大学を昭和38年卒業して、
 最初に就職したオーケストラがしばらくして解散してしまいました。
 その頃から音楽を取り巻く環境が大きく変わっていったと思います。
 オーケストラでは食べられず、フリーの奏者として皆様々な仕事をこなして不安定な生活をしていました。
 私もこの状況がいつまでも続くとは思えず、福井に戻る事を決意しました。
 昭和48年で私が33歳の頃。東京に出て20年たっていました。

 その時にご縁があった方から「ヴァイオリンの先生が一人辞めたのでどうか」
 と言われ、仁愛女子短期大学に指導者として行くことになりました。
 そこからが私の指導者人生、また再びヴァイオリン奏者としての人生です。
 私を仁愛女子短期大学に紹介してくださった方は、なんと私の最初の先生である青山正雄先生のご子息、現在の青山ハープの青山憲三社長でした。


《仁愛女子短期大学指導者時代》


 そんな事があって指導者になったんですね。ほんとにいろんな縁を感じます。

 自分でもそう思います。
 担任が突然始めたヴァイオリン合奏、突然一夜の宿を求めたおばあさん、
 そしてたまたま聞かされヴァイオリンに憧れをいだいた父。
 どれ一つ欠けても私の音楽家としての人生はなかった。
 ただただ導かれるように歩みました。
 結局後から調べるとおばあさんは親戚でもなんでもなかった。
 私は縁もゆかりもない赤の他人の家に下宿する事になったわけです(笑)


 指導者として子供たちを教えるようになって、自分の時代との違いは何か感じましたか?

 ソルフェージュ(※)力の成長を感じました。
 それに合奏の能力を求められるようになりました。
 僕らの時は1章節ごとに繰り返し繰り返し演奏に取り組んで、
 一つがクリア出来たら次に進むという感じ。
 今はバーンと全体を弾いて、おおよその輪郭が出来たところで、細かい所を磨いて仕上げてゆく。
 どちらが良いとか悪いとかという話ではないけど、
 取り組み方の意識から変わってきたように思います。
 CDなんかの演奏見本がたくさんあって、そこに正解があるからね。
 上手く弾く、という事にかけては、今の若い人たちは本当に早く形にしてきます。

 ※西洋の音楽学習法。楽譜を中心とした音楽理論を実際の音に結びつける訓練

 指導者の言う事が絶対なんて雰囲気はなくてあまり頼ってこないし、
 自分の世界をしっかり持っている。
 指導者にとって一番大切なことは、生徒の才能をつぶさない事。
 生徒の気が付かない所を観察して自分が学ぶ。
 後は、保護者も変わってきたね。
 昔は保護者が熱心で子供の横にピッタリ張り付いて見張ってて、
 少し注意すると子供はすぐ泣いてた。
 今の子はケロッとしているし、保護者は子供を預けてどっかに出かけて行っちゃう(笑)


《子供達を指導しているところ(1993年当時)》