4.声楽家の道へ(ドイツ留学時代)
たしかにどれだけ食べてもお腹がすく年頃ですからね(笑)
先生はピアノ専攻で大学に入ったと聞きましたが、
声楽家として歩むきっかけは何だったのでしょうか?
関西歌劇団のプリマである岡田晴美(※)先生についている学生のレッスンに伴奏者として伺ったとき、私の声を聞いてくださり、すぐに副科声楽の生徒として認めていただきました。
この岡田先生との出会いこそ、私が声楽家を志す第一歩でした。
※ソプラノ歌手、大阪芸大講師、神戸女学院大名誉教授
国内外でオペラ、リサイタルなどで活躍し、後進の育成にも尽力した。2021年92歳で没
当時、大阪芸大はグレート制(※)を行っていました。
私はピアノのグレードは4級からなかなか上がれず、卒業間近にやっと3級にあがれました。
しかし、声楽は6級から始まり、2年間で主専攻領域の4級を取得しました。
※大阪芸術大学のピアノと声楽の分野で導入されている制度
学生の演奏能力を評価する制度で、1級から10級までのグレードが設定されている
それから声楽も真剣に学び始め、特にドイツリード(ドイツ歌曲)にはまっていきました。
大学4年生の時、ウィーン国立音大リート科教授ロマン・オルトナー(※)先生のセミナーに参加する機会があり、2週間オーストリアのクラーゲンフルトに滞在しました。
そのことがきっかけでドイツ留学を目指すことになります。
※ウイーン国立音大教授。数多くの世界的声楽家のコンサートで伴奏を務めた
妻は日本人ピアニストみどり・オルトナー。1990年52歳で没
大学を卒業し半年間、語学学校でドイツ語の基礎を学んだ後に渡独しました。
ドイツでさらに半年間準備し、1980年に西ドイツのミュンスター音楽大学声楽科教授ウータ・シュプレッケルセン先生の門下に入学することができました。
シュプレッケルセン先生は色んなセミナーを開催してくださり、ドイツ歌劇の作曲家ロルツィングの「禁猟区」の全幕を門下クラスで取り組みました。
また、教会でパオイプオルガンと演奏する機会をあたえてくださり、いろいろな作曲家のミサ曲を知ることができました。
留学3年目からは自活することになり、市内の音楽学校のピアノ教師やバレエ教室のピアニストとして生計をたてていました。
大学からは副手として採用され、ピアニストとしてリート解釈の授業やオペラ演習の授業をもたせていただきました。
日本でピアノを専攻していて良かったと思います。
日本人でありながら、ドイツの地で指導までされていたんですね!
優秀さが認められた証じゃないですか
《ドイツ留学時代の一コマ》
ミュンスターには大きな歌劇場があるのですが、そこでムソルグスキー作曲の歌劇「ボリス・ゴドノフ」の公演があり、出演する合唱団を募集していたので参加しました。
一つのオペラの中で農民、裁判官など色んな役があり早着替えなども体験できました。
本格的なオペラ公演に出演し、その制作の裏側まで見ることが出来たためすっかり魅了されました。
この経験を日本でも活かしたい!
と思いましたが、その想いは何十年も経て実現する事になります。
シュプレッケルセン先生はソプラノでしたので、テノールをデュッセルドルフにあるシューマン音楽大学のラツコ・デロルコ先生(デュッセルドルフ歌劇場専属テノール歌手)に習いました。
先生からお習いした発声法は今も合唱指導に取り入れています。