小牧伸輔

敦賀市出身。大阪芸術大学演奏学科ピアノ専攻、ドイツ国立ミュンスター音楽大学で声楽を学ぶ。
帰国後は県内外で演奏活動、合唱指導を開始。福井オペラ研究会(現:ふくいEオペラプロデュース)に所属し、演出家中村敬一氏のもと県内で数々のオペラ公演に参加する。
福井県合唱連盟の理事を10年間努め、敦賀市を中心に小中学校での合唱指導、県内外で合唱コンクール等の審査員を行う。
小浜市にて10年間『はばたけ、未来へ』の主催するミュージカル等の演出に関わり、小浜市教育委員会から奨励賞を受賞。
敦賀気比高等学校教諭、仁愛女子短期大学講師、仁愛女子高等学校音楽科科長を経て、現在敦賀市内の小学校に講師として勤務。
数々の合唱団指導、パレア若狭ミュージカルでは脚本、演出など総合プロデュースを担当し「サウンド・オブ・ミュージック」「アニー」「回転木馬」の公演を行う。
福井県合唱連盟副会長、福井県音楽コンクール声楽部門審査員。

1.母に導かれた音楽への道(幼少期~中学時代)


 本日はお越しいただきありがとうございます。
 早速ですが、小牧さんの幼少期の事、また音楽へつながる出会いを教えてください。

 私は1956年6月に生まれました。
 家族は水産加工業を営み、祖父は寡黙な職人で戦時中物資がない中少しでも美味しい商品を作ろうと奔走した苦労人です。
 後に叙勲の栄誉に浴します。
 私の尊敬する人物でかなり影響を受けたと思います。

 音楽へのきっかけは、小学1年生の時。
 学生時代声楽を習っていた母の勧めで、当時敦賀市で一番厳格な龍田静子先生の門下になります。
 母は国立音楽大学に合格したのですが、戦争の影響もあり進学は出来なかったんです。
 その想いが私に注がれたのかもしれません。
 男子でピアノを習っているのが珍しい時代、目立ちたがり屋な性格もあり6年生まで続けました。


《小学生時代》

 ただ、野球が大好きで毎日練習にあけくれていたため、
 週に一度のピアノのレッスンに行く日だけ、学校から帰って3時間だけ練習。
 遅れてレッスンに行っては「もっと早く来なさい!」と先生から怒られていました。

 6年生の時に福井県で第1回目の国民体育大会が開催されました。
 敦賀市全域から鼓笛隊の精鋭が集められ、そこで初めて指揮棒をふる事になりました。


《鼓笛隊を先導》

 中学校は京都の東山中学校へ進学。
 当時2か月に1回程度、京都の梅田志づ先生(※)のレッスンを龍田先生と共に受けていました。
 その関係もあって親元を離れて京都の中学校へゆき、音楽の道に進もうと決心したのでした。

 ※東京音楽学校卒。京都学芸大、京都教育大の各講師を経て、華頂短大教授
  華頂女子高校講師を務める。藤堂顕一郎音楽褒賞、京都府文化賞(功労賞)受賞

2.挫折から再びピアノを(中学~高校時代)

 ここからは苦難の連続です。
 まず京都での住まいですが、歴史的にも有名な「本能寺」の中にある宿坊に住職で親戚の叔父が居たため、そこに住まわせてもらいました。
 ピアノは持ち込んだものの、そこは法要やら華道教室を行っていて音が出せず……。
 十分な練習もできず梅田先生には毎回怒鳴られ、精神的に参ってしまい敦賀に逃げ帰りました。

 その後、練習環境を変えて、伏見にある古寺にピアノを置かせてもらうことになりました。
 学校が終わったら電車で伏見へ行き、3時間ほど練習してまた本能寺に戻るという生活です。
 しかし、繰り返しているうちにとうとう身体を壊してしまいました。

 ピアノは断念し、進学校へ進むため勉学に力を入れたところ成績が予想以上に上がり、
 担任の先生に説得され同系列の東山高校の特進クラスに進学することになりました。

 ただ、高校に入って悩んだ末、もう一度音楽大学進学を目指すことを決心しました。
 もう一度梅田先生の門をたたく勇気がなく、違う先生にピアノを習うことにしました。
 東山高校ではコーラス部に所属し、合唱活動の第一歩を踏み出すことになります。


《東山高校コーラス部にて》

 高校3年になったとき、このままでは音大は厳しいと判断し、
 当時音大受験の神様といわれた梅田志づ先生の門をもう一度叩くことになります。
 1日3時間、休日8時間、ピアノに向き合いました。
 今思えば効率の悪い練習方法だったと思います。
 同時にソルフェージュと声楽を華頂短大の安田年子先生につくことになりました。
 安田先生は優しく、当時の私の環境を理解してくれて、いつも励ましてくれました。
 そして努力のかいがあり、大阪芸術大学演奏学科ピアノ専攻に合格しました。